昭和44年3月28日朝 

   御理解第十八節
  『此方のことを神,神と言うが、此方ばかりではない。ここに参ってくる人々が神の  氏子じゃ。生神とはここに神が生まれるということで、此方がおかげの受け始めであ  る。みんなもそのとうりにおかげが受けられるぞ。』
 
 金光様のご信者、植木のしごとをする十五夜、先ず神の氏子たる自覚に立つことからこのみ教えが生きてくると思うんです。私共は神様の氏子であるという自覚、特に「ここに参ってくる人が」と仰っとられる。
 ここに参ってくる、御神縁を頂いてお参りしておる人皆神になれる、神になれるというよりも、むしろ神の氏子なんだ、そこで私共が、世界中の氏子全てが神の氏子であります。
 そこまでは他の宗教も説いているようですね、神の氏子というようなことは。けいどもそういうだけではね、なるほど、神の氏子でもありましょう、人間は万物の霊長でもありましょう、しかしそれでは何の働きも神様の働きもなしえないのです。
 そこで教祖が仰っている「此方がおかげの受け始め」と仰る、「受け始め」とはどういうような処を受けられたか、その「神、神」というが皆も神の氏子と仰る神に「生きる」という字(し)が着いたんです。
 ゆわゆる生神、ですから、いうならば神の氏子のしての自覚が出来たんです。または自覚が有るなしにしろみんな神の氏子だと、それはまあ生きた神じゃないということになる、神の働きをなさんのですから。
 ですからお道の宗教者がみんな生神を目指すというとがお道の信心だ、これは教祖の専売特許のようなものですね。みんなが生神を目指す、その生神のおかげを受けられた、お徳を受けられたおかげの受け始めが教祖様、生神金光大神様ということんになる。
 みんな生神をめざさなければなりません。これは私どもの信心の最高の願いであると同時にまたみんながその願いに至らなければならない。
 お道の信心をさして頂く者はみんな生き神を目指さなければならない。その生き神とは「ここに神が生まれるということ」でとあります生き神とは神がここに生まれるという事、生き神が誕生する。
 先日経理のほうを受け承っておる久保山茂さんのこのややこしい帳面がですね、やっと受け持っておられるわけですが、こんなにもややこしいことをとても私共はできない。係っても出来ないことを夜通しやりましたが二日ぐらいでやってしもうた。
  先日高橋さんと二人で二日市教会に、教会に全部の先生方・・・・・?先生がやっとられるですね
 「合楽教会はあなたがたがやっとられるんですか」
 「はあやっとります」
 「先生が奥さんかなんか、若先生かなんかやってんのと違いますか」
 「いいえぼくたちがやっとります」
最後には不思議でたまらんようでした。
 今日所から塩沢次長が見えとったそうですが、塩沢次長が見えてから、あまりにも完璧にできてるもんですから驚いてしまってから、もう本当にパラパラとめくっただけで「もう云うことない」と。
 皆がその、合楽の場合は全然おかげを頂いているということは、他所の教会あたりの全然出来ていない、出来ておっても中途半端、えらい几帳面につけていると思って見ると、書かんでよか事ばっかりを書いてある、肝心要のことはなにも書いてない。
 そしてみょうなことばっかりだったけれども、信者が受け持つということがほんとうだ。そうでなかったら教会のガラス張り的運営がなされない。
 他所では、こんな事まで信者に見せよったら大変というような訳らい、ですから先生がせんならん奥さんが受け持っておられる処は奥さんが見えとられる.先生がしなさる処は先生が見えとられる。これは極秘で信者には見せられない物、どれだけ収入があるか信者に見せられんというようななにがある。
 それでは本当のことはできません。例えていうならば、美智子さんが大学に行く、いくらかかりますか、二万円。毎月送ります、5百4人の人が一万円ずつ貯めて使えればいっぺんで、税金がかかるという訳でもないのにどうしてこんな風に書きござるですか、世羅ごとのことが書いてある。場合にはね、など余談になりましたが、桁が幾桁も違う、例えば千円の売上がある処にはこちら一万円も売上がなっとる、売り上げで云うなら、全然桁が違う、これだけのことを信者がこうやって受け持たねば。
 金光様でさえお手当てで生活なさっておられる。まあ、そういうようにですね、茂さんが云っているようにキチッとした帳尻にきっとした合った数字が生まれて来る、だから途中を疎かにしてキチッとした数字が出て来る筈はない。
 私共信心にならせて頂く心の底からありがたいなーと感嘆の声を上げたいようなありがたい心が湧き出ることがあるでしょう。
 そういう時には自分の生き方に1分の間違いもない、いわば、生き方をしているような一時なのだ、ありがたいというのは。ゆはゆる「神の誕生」です。
 ですからどうでもみなさんが願いとしなければならないとこは、否私はこのおかげさえ頂けばよかてんと云うケチな考えを捨てて私達は生神になる道を体得するために合楽がよいしているんだという気持ちにならなければなりません。
 そうでなかったら金光さまの信心が根底から中途半端に終わります。
 その中に願いがあってお詫びがあって、お礼がなからなけねばならんのです。願うことを通して生神へ目指す道を段取りを付けて頂く。
 ですから・・・・?なら生神さまにならせて頂く、生神金光大神をめざして信心をお互いなされなければ、信心が必ず中途半端なものになります。信心を止めると言うのではありません、そこで生神という目指しを持たして頂いたらどういう生き方、どういう処に間違いなく今生神の道を歩いているかという事を確かめられるか、ただ生神を目指しておると云うだけではいけません、目指して歩いておるが果たして生神を目指している処に一歩ずつでも近ずいておるかどうか、また、そういう稽古をしているかどうかという事を確かめなけねばなりません。
 それはね、どういう事かというと生神ですからね、全ての事が生きてくる全ての事を生かすそういう働きを、そういう考え方をしているかどうかということなんです。
 全ての人を生かす、全ての事柄を生かす、すべての物を生かす、例えばお金でも生き金と死に金があると云はれている・・・?生き金を使うそれが金を活かすことです。
 全てのことを活かす働きを自分がしているかどうかということなんです。その事に焦点を置いているかどうか。
 ですからお金でも、その金が活きるならば惜しんではなりません。
それには、やはり、本当に御礼の心というかね、例えばおかげを頂くためにですね、私はよく例を申しますが、福岡で3代目の吉木辰二郎先生が大変な重体に陥られて、その時自分の持ち物をぜんぶお金に換えられた自分に入っている預金も全部引き出されて親教会とご本部に全部奉納された。
 それから助からん命が助けられたという話を先生ご自身から頂いたことがありますが、これはねどうでも助からんならんから背水の陣を敷かれた訳ですね。
 けどもね、これよりか、もっと素晴らしいことはね、おかげを受けるということ、おかげを受けた時に、私は思い切ったおかげが頂かないとだめだと思う、これは最高にフルに生かす訳です。そうしたらおかげが受けられるそうしたらお徳が受けられるでしょうね。 ところがですね、始めの間は千本の灯篭を奉納しますといった願いで、「ウソじゃない本当に助けてもらえば」助けられたら、千本が五百本になり五百本が百本になり、それが一本のお供えにもならんといったようなクールにくずれていくのが人間です。
 先日からある教会のご信者ですがここへ三回参ってきました。 始めて参った時に、それこそ理屈じゃない、とにかくここでは生きた神様がみられる拝まれることが、だから一晩泊めてください。
 三日きましたが、三日とも泊めてくださいというて、ここで四六時中願いを、一日中を神習して帰る。・・・・・・?うしろへどれだけ大変なことでずーと吊り下げておかにゃならんという病気で病名は忘れましたがね、まだ若いのに全然仕事が出来んのです。ですからねやっと袋張りが出来るぐらいのこと、それを一生懸命して6,70円しかならん、もう本当にわずかばかりで人より出来んからかもしれませんが月に二千円か二千五百円一生懸命してそれぐらいしかできない
 ここでですね、本当に感激、感動が続く。7年間痛み続ける、バスで来ますのでいつもこうやって腰を上げてないとバウンドで痛いという、それが忘れるようにおかげを受けた。
 三回目にはここからやみ郡まで(やみ郡から来ているんですが)歩いて帰ると云う、やみ郡まで歩いて帰りました。
 自分ではお届けしきらんから、長い手紙を書いてから、一緒に持って来ておりますがね。本当にこのような感激はない、出来ることならこの身体をこのままお供えしたいけれども、それが出来ませんから、私が長年かかって貯めました貯金がございますから、これを通帳と印鑑ともにお供えさして頂いてお礼の万分の一の形の上に現すお礼にさして頂きますからどうぞ御寿後くださいという訳。
 それを郵便貯金にずーと二千円か二千五百円入れてある。毎月これだけが自分が手内職できる、それを最後一万円だけ残して全部現金に換えて封筒の中に入れてお供えされた。 私はちよっと驚きました。
 広大なおかげを頂いて酒2升持ってお初穂一万円をつんでくると言うぐらいならね
 皆がおかげ頂いていることでございますけれども、もう本当のどれほどのお金を医者に払ったか分からん、まだ娘さんですからね。
 それがたったの三日間のお参りでおかげを受けたということにですね、とにかく自動車に乗ってたまがることは、バウンドで腰にあたることが快いというほどのおかげをいただいたから、それぐらいおかげを頂いたなら誰でもできると思われるかもしれない。
 こういういわば、御礼の信心です。本当に素晴らしいことを教えられたという気がします。
 「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」という諺があります。 
 おかげを頂いた時に切らなかったら来年その次がだめなんです、桜の方は切る、自分のことの贅沢のことなら切る、だから芽もでない根も枯れる、ここぞと思う処には切り切らん、これなら生きるという時は切り切らん。
 この人はお徳を受けると思います、全然信心のことが分からなかった、長年信心してきてるけど分からなかった、とにかく、どんどん日に分かっていくわけですね。
 ですから私は、吉木先生の例をとりましたが、もう命がない時に、あれもこれもお供えして助けて頂こうということはおかげを受けることでしょうけれど、おかげを受けて、それが出来るならば、お徳を受けることです、生きるはずです。
 梅が咲いた後でぼうばら坊主に切っておかないと来年の花が付かないといわれています。それと同んなしことです。「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」である。梅を切らないときに切らんでおきながら、桜の方だけ切ってしまう。
 自分の飲んだり食うたりする時にはどんどん切るけれども、いよいよのときには切り切らん、これでは生きない。
 私どもいっさいを、例えば大胆にも生かしていこうとする信心の度胸を日頃作っておかなければなりません。
 全てを生かすという事、全てを生かそうとしている自分であるかを確かめる。それを私が云う、ここに参ってくる氏子は全部生神を目指さなければならない。でないと金光様の信心が中途半端になる。これは、生神金光大神の、いうならば、専売特許、それを私どもが受けようとする願いが信心である。
 金光様の総生神様を願わしてもろうて打ち込んでいくという信心、総ての事が一つ一つ生きてくる、過去あーいうような事があったおかげで、今日こいうようなおかげを頂いていると分からせてもらう。
 現在のこのことも、あれもこれを生かして行くというそこに生神が誕生する、そういう生きた心で願う、生きた心でお礼を申しあげる。
 そこで私はね、それを具体的に日頃頂いておるみ教えから生神を目指すいうことの一つの焦点というかね、どういう風に縮めた言葉でいうならば、それを心に懸けておればいいだろうかご理解18節の中からこれをお互い実際目指さなければなりませんので、そのことを頂きましたら「あいよかけよ」頂きました。
 神様あっての氏子氏子あっての神あいよかけよ、そこでどういうことになるかというと「神様、あなたのおかげでと言う事と同時に、神様も又氏子のおかげで」と云うて頂ける信心を目指さなければなりません。
 ほんに末永建郎というひとがいる、「神様のおかげで」とこういう、「親先生のおかげで」とこういう、そんなら「建郎さんあんたのおかげで」とこういう、先生も「あんたが居ってくれるおかげで」と 言われ、言う出来る仲というものを作っていかなければならない。これが「神が生き、氏子が生きた姿」なんです。 
 これは夫婦の場合でも同じこと、「お父さんあなたのおかげで、否、お前がやってくれるから」と、片一方ではいけんという事です、両方が生きてこなければ生神の道にはもとるという事
 「お父さんあなたのおかげで」「うんおれのおかげでお前さんが食べていける」
といったような事では出来ない。生かし生かされなければ生神は誕生しない、生かし自分も生かされる。
 「神あっての氏子、氏子あっての神」そういうあいよかけよの働きが信心によってなされることを精進さしてもらう、それが間違いなく生神の道を辿っている訳である。
 だから知らん間にたどっているというよりも、目指すことが生神でありその生神に一歩一歩近ずかせていただくのが楽しいのです、ありがたいのです。そこから生神の道を表していけれるだけのおかげが受けられる。今日のご理解18節はそこのところを、生神をお互いみんな目指さなければならん。
 それには先ず自分の心が生きてこなくてはならんと同時に、すべてを生かすという願いを建てなければならん。
 これはどういうことになるかと云うと、教祖生神金光大神への帰依なんです。生神金光大神のその帰依がなされなけねばなりません。金光大神に帰依することです。そこには疑いもない、お互いに迷いも無いことになってまいります。帰依なんですら、「あなたのことならどこまでも」というのですから。
 その帰依がなされる、そしてそのところを願いとして目指してお互い信心を進めてゆくそれを日常生活の上に、家内を拝み家内からも拝まれ、物を生かす事柄を生かす、その
物のおかげでその事柄のおかげでとそれにおかげがつけられる信心、そこに生きてきた
 そこんところを梅と桜の例でもっつて申します、そういう全てを生かしていこうとする信心、そういう、いわば、エネルギーを蓄えておかねばならない
。ゆはゆる元気な心で信心せよ」と仰せられる。すべてをおかげにせねばならぬ、それがすべてを生かすこと、その為の精進はいといませんという信心、そこに生神が生まれてくる、信心がひとつ一つ生まれてくることが楽しいじゃないかと信者さんが云ったということが一日心の中に生神が誕生していくことが嬉しい事ではないか、楽しいことではないかという処に又精進もありがたいことになってくるんです。本気で生神を目指した信心に精進してほしいと思います。  どうぞ
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